馬渕睦夫 – アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ

馬渕睦夫 - アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ

馬渕睦夫 略歴

元駐ウクライナ兼モルドバ大使、元防衛大学校教授、現吉備国際大学客員教授。
1946年京都府生まれ。京都大学法学部3年在学中に外務公務員採用上級試験に合格し、1968年外務省入省。
1971年研修先のイギリス・ケンブリッジ大学経済学部卒業。2000年駐キューバ大使、2005年駐ウクライナ兼モルドバ大使を経て、2008年11月外務省退官。
同年防衛大学校教授に就任し、2011年3月定年退職。2014年4月より現職。
金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。
著書に、『国難の正体』(総和社)、『世界を操る支配者の正体』(講談社)、『日本「国体」の真実』(ビジネス社)、『そうか、だから日本は世界で尊敬されているのか! 』(ワック)などがある。

ウィルソン大統領時代のアメリカ アメリカはなぜ日本を敵国としたのか

・ロシア革命は『亡命ユダヤ人が主導した、ロシアのユダヤ人解放のための革命』だった(筆者著書『国難の正体』、『日本の敵』)。

・社会主義も、リベラルも、ネオコンも国際主義イデオロギー。

・ウッドロー・ウィルソン大統領の取り巻きは社会主義者だった。

・アメリカが第一次世界大戦に参戦した理由は『バルフォア宣言』。パレスチナでのユダヤ人国家成立をイギリスが認めるならアメリカはドイツに参戦する。バルフォア宣言とはイギリス外相アーサー・バルフォアがロンドンのロスチャイルド卿に送った書簡。

・シベリア出兵はウラジオストクの軍需品をドイツに奪われないようイギリスが日本に『連合国を代表して派兵』するよう要請したことに依る。

・日英同盟のためイギリスは日本に第一次大戦への参戦を要請。日本はドイツに参戦したが行動範囲は中国内ドイツ租借地域とドイツ領南洋海域のみ。

・ニコラエフスク邦人虐殺事件(尼港事件)の発生でシベリア撤退が遅れた。

・共産主義国家においては、『あるべき未来の建設』のため『現在を無視』するというイデオロギーのため人命が軽んじられる。

・第一次世界大戦後のベルサイユ講和会議に日本は五大国の1つとして参加。『山東省のドイツ権益継承』と『赤道以北の旧ドイツ領諸島の処分』を認められる。世界で初めて提案した『人種平等』はウィルソン大統領によって否決。

・ウィルソンは『平和14原則』と『民族自決』を提唱。だが、米国内の黒人の自決は認めず。アメリカで黒人が白人と同等の権利を得るのは1964年の『公民権法』の成立による。

・民族自決により、バルカン半島や東欧諸国が独立、地域の不安定化をもたらす。

・ウィルソンは人種平等は認めなかったが、宗教平等を提案。ユダヤ教徒とキリスト教徒を同等の扱いに。ユダヤ人が居住している国で宗教紛争が勃発。

・ベルサイユ講和会議で『国際連盟』設立。意義は『従来の2国間同盟に基づく安全保障から集団的安全保障システムへの移行』。メンバー国は主権の一部を国際連盟に移譲する。

・国際主義とは『主権国家の上に国際機関を置く』。国家に干渉できる権力を持つ機関を作るというのは国家を持たないユダヤ思想。

・1921年のワシントン会議(ワシントン海軍軍職会議)でアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの主力艦の比率は5:5:3:1.75:1.75に制限。

・日本にとっての死活問題は『日英同盟の終了』と『9カ国条約の締結』(加盟国は五大国+中国、ベルギー、オランダ、ポルトガル)。

・アメリカは『9カ国条約の締結』を利用して日本の中国・満州権益に批判、干渉を開始。大東亜戦争の火種となる。

・9カ国条約は中国の主権、独立、領土保全の尊重、門戸開放、機会均等を謳ったが当時中国に条約を履行できる中央政府が存在せず(1911年の辛亥革命以降内乱状態で3つの政府が存在していた)

・ソ連は9カ国条約を締結せず1921年モンゴルに侵攻。アメリカはソ連を非難せず。日本の中国、満州での赤化防止政策には難癖を続けた。

・1913年にはカリフォルニアで排日土地法が成立。1922年アメリカ最高裁が『黄色人種に帰化権はない』と判決。合法的に帰化済みの日本人の権利まで剥奪(事後法)。1924年アメリカで『排日移民法』成立。

アメリカはなぜ日本より中国を支援したのか

・中国と満州は社会主義勢力のターゲットになった。戦術は2通り、ソ連による『共産主義思想の拡大浸透』と英米資本による『中国経済の奪取』。

・共産主義者の戦略は『戦争を誘発すること』、『国内に共産主義思想を蔓延させ革命を起すこと』。

・『中国の共産化をしたいソ連・コミンテルン』と『中国を経済的に奪取したい英米金融勢力』とは通じていた。

・満州事変の後、関東軍と張学良は戦闘を継続していた。1933年5月に『塘沽(とうこ)停戦協定』で満州と中国の国境線が確定、満州事変は終結。

・西安事件は蒋介石の配下にあった国民党東北軍司令官の張学良が、対共産党作戦の打ち合わせと称して蒋介石を呼び出し、抗日闘争不実行を口実に監禁した事件。

・張学良は満州事変の後パリに移住。1934年に上海に戻る。蒋介石は張学良を東北軍管轄地域で共産党勢力を平定する責任者に任命。

・張学良は共産主義者との交流を深め、『真の敵は日本』と説いて回った(カール・カワカミ『シナ大陸の真相』)。張学良はパリ滞在時にソ連工作員と接触していたことが判明している。

・1935年にイギリス政府の最高顧問リース・ロスによって『支那幣制改革』が行われる。その後実質的に中国の権力を握ったのが宋子文。宋子文の背後にいるサッスーン財閥と英米金融資本家が宋子文を通じて中国を支配するシステムの確立。

・宋子文は西安で張学良を説得(出来レース)、蒋介石は釈放された。蒋介石は国民政府のトップに居続けたが実験は宋子文に移る。抗日統一戦線が成立、日中和平や共産党勢力撲滅も不可能に。

・盧溝橋事件は中国共産党が、第二次上海事変はドイツ軍事顧問の支援を受けた蒋介石が仕掛けたもの。日本は居留民保護のため増派したが、南京攻略の前に蒋介石に和平を提案(ドイツに和平斡旋を依頼『トラウトマン和平工作』)したが拒否された。

・ジョセフ・マッカーシーはアメリカが蒋介石に日本と戦うよう仕向けたと供述(『共産中国はアメリカが作った』)。外相広田弘毅はアメリカにも斡旋を依頼するがアメリカは拒否。

・南京攻略後も日本は蒋介石に和平を提案し続けた。特に陸軍部内に強い交渉継続論があった。近衛声明が『真に提携するに足る支那政権に期待し、これと国交を調整し再生しなの建設に協力せんとす』と言明している点にも日本が中国との戦闘継続を望んでないことが窺える。

・近衛声明に呼応して重慶政府は分裂、1940年に汪兆銘を首班とする南京政府が樹立される。汪兆銘から日本に和平の申し入れがあった。

・アメリカは支那事変が始まると蒋介石に2500万ドルを供与、武器の売却して支援。1940年にはフライング・タイガースを派遣して日本軍と交戦。真珠湾攻撃以前に中国の基地から日本本土を爆撃する計画をたてていた。これらは軍事支援行為で国際法違反、実質的な開戦行為。

・支那事変とは『日本 vs 中米ソ』の戦いで侵略戦争とは言えない。英米が蒋介石を支援、ソ連・コミンテルンが毛沢東を支援。共産党分子が国民党に入り込み対日謀略や在留日本人虐殺を起こしていた。

アメリカはなぜ日本に戦争を仕掛けたのか

・1940年に作成された『マッカラム覚書』は日本を戦争に挑発する行動計画8か条。
(蒋介石支援、蘭印石油輸入阻止、日本との通商禁止、対日軍事挑発….)

・パリ不戦条約は経済封鎖を侵略行為としている。自衛戦争かどうかの判断は当事国がする。

・ヘンリー・スティムソン陸軍長官は日記の中で、ジョージ・マーシャル陸軍大将がマッカラム覚書を知っていたとしている。『操られたルーズベルト』によれば、マーシャルは日本の宣戦布告を事前に知ったハロルド・スターク海軍作戦部長がハワイに知らせるのを止め、「自分が電報する」と答え、わざわざ商業電報を使用して日本軍の攻撃後に到着するよう画策した。

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